相手主体に考える
相手主体。
操体法でも説いている考え方。
自分が何かをするのではなく、相手の原始感覚を大事にする。
これが難しい。
色々知ってしまうとよりそれができなくなる。
こうしてやろうとか。
こうなるのが正解とか。
こう動くとこうなるとか。
色々自我が出てくる。
まぁそんなのは普通。
出ないのもまた問題な気もする。
相手ありきの自分。
自分ありきの相手。
いつも思う調和が難しいと。
しなくてもいいのだろうけど、そうもいかない。
自分にゆとりがない場合に相手主体にはなれるわけがない。
まずは自分をしっかり整える。
そこしかないよね。
なりたい自分になる
なかなか宣言できない。
何か突っかかるものがある。
あの自分を縛っているものはなんなのだろう。
トラウマなのか?
変わらないを選択することがいいのか?
そのままでいることに満足しているのか?
たまに施術しているときにやります。
こうなりたいと宣言してください。
そうするとなんだか言葉に詰まります。
頭では良くなりたいとわかっているはずなのに、なぜか言葉に出せない。
なんなんでしょうね?
あの感覚。
自己を肯定する能力が低いのと、理想が高い。
やはりセラピーをしていて、すぐによくなると言う頭がどうしても作れていない。
あとは少しの変化に喜ぶことができないくらい、感覚がばかになっている。
こう言うことを対話しながら、少しずつ積み重ねていくしかない。
私がだいぶ○○できるようになってきましたねと言っても、自分の理想が高いがゆえに認められない。
感じ取れない。
それってなかなか問題。
でも私もまだまだってこと。
自分の評価が極端に低い。
でも、だって、なんてよく聞く言葉。
できなくてもいい。
少しでもできるようになっていけばいい。
その小さな喜びすら忘れてしまっているこの世の中。
大きなことよりも小さなことをコツコツやっていくしかない。
さぁ頑張ろう。
まとめ
できることからコツコツと。
自戒の意味も込めて。